生き続けてやる肺がんオヤジのつぶやき No2

肺がん脳転移ステージⅣを宣告されたオヤジが綴る日々の呟き!日々迷走中(^ ^)

ありがとう


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2月15日  1時58分  旅立ちました。

応援 ありがとうございました。

 

ここからは 聞き苦しいかもしれませんが、 オヤジが伝えたかったことを 私の最後の務めとして、長くなりますが、遺させてもらいます。

 

オヤジは最期まで諦めませんでした。 

11日(土) 急激に酸素低下で袋付きの酸素マスクを着用 モルヒネを増量

この日から私と子供たちも病院の配慮で泊まり込みました。

12日 (日) しんどいながらも 会話はでき 家族で笑い合う時間も持てました

13日(月)レントゲンをとり、病状を確認。    右の腫瘍が 肺の半分くらいの大きさまで増大に 右肺は全て腫瘍と肺水でした。。

肺水を抜くこともできましたが、頭のこともあり、これ以上痛い思いしんどい思いをさせたくなく、処置をしませんでした。

子供たちは病院から学校に行き、夕方まで私と二人で過ごしました。

不覚にも 私が 悔しい、悔しいとオヤジの前で泣いてしまいました。。

オヤジは 凄くしんどく、身体を動かすこともできないのに、僅かながら動く手を、伸ばして私の頭をなでてオヤジの胸で泣かせてくれました。

この日夜が家族での最期の晩餐になりましたが オヤジの大好物ブリの

にぎりを小さくして ふた口食べました。

病院の酸素もマックスで 呼吸も荒く…

 

14日 (火)  会話も出来なくなりましたが、 目や首を動かし

コミュニケーションをとってくれました。

もう 時間毎に酸素が低下 意識も朦朧としていましたが、ウトウトはしますが寝ようとしませんでした。

夕方過ぎからは私も見てれないほど、呼吸が苦しそうで 何度か

深い眠りに入れる 鎮静薬を勧めました。

でも オヤジは 首を振り続け 拒み ました。

聞き取りにくい、僅かな声で 「みんなと居たい」と言いました。

この日二日間、沢山の友人たちが来てくれました。

夜 11時過ぎに面会の友人 家族も帰り、子供たちも病院が用意してくれた部屋に寝たので、そのことを伝え、「疲れたやろうから、鎮静薬ではなく、眠剤の点滴をしてもらって、少しだけ寝たら?私も少し寝るから」と言うと

「うん」と頷きました。 この時点での 眠剤も そのまま…という危険もありましたが、あまりにも頑張っているオヤジをこれ以上頑張らせることを私には出来なく、覚悟をし、 看護師さんにお願いしました。

眠剤を始めると10分くらいでオヤジは寝てました。

11日から泊まり込み私があまり寝てないのをわかっていたのだと思います。(周りから言わせると、凄く疲れた顔をしていたそうです。。)

気が付けば 私も1時間ほど寝てしまってました。

ハッと 気づき起きると オヤジは今までにない、激しく苦しそうな息づかいでした。

慌てて看護師さんを呼びました、看護師さんからも鎮静を勧められましたが 首を振り、私の顔をしっかり見て目を閉じようとはしませんでした。

子供たちを呼ぼうか?  友達や誰か呼ぼうか?と聞くと 首をふり、私が手を繋ぎ

私と二人で最期まで頑張るのかと尋ねると 弱い力ですが 指に少し力を入れてくれました。

オヤジは何かを伝えようとしてるようでしたが、わかりませんでした。 

恥ずかしい話ですが、オヤジは私に「裕福な生活や幸せには出来ないかもしれない。 だけど 死ぬ前には 俺と結婚して良かったって言うてもらえるようにするから、結婚して」ってプロポーズをしてくれました。

なので 私はしっかり 手をにぎり

「オヤジと結婚して良かったよ!沢山の愛で包んでくれてありがとう 。」って伝えました。 私には苦しそうでしたが ニコッと微笑んでくれてるように 伝わっているように見えました。

「私しっかり 伴走出来た?」と尋ねた時は 首を縦にふり「うん」と頷いてくれました。

横に付いててくれた、看護師さんも 後から そのことを 言って 私を励ましてくれました。

ずっと私の顔を見続けてくれました。

苦しそ息づかいは 次第に 弱まり 目を閉じだしました。

看護師さんが 子供たちを起こしに行き 連れてきてくれました。

目を閉じ、呼吸が消えようとしてる時に 子供たちが手をにぎり「ありがとう」と伝えると オヤジの目から スーと涙のようなものが流れました。❨人間は息を引き取るとき 体内の全ての物が自然にでるというので 生理的なものかもしれませんが…❩

 

オヤジは 私達3人が手を繋ぎ 見守る中 息を引き取りました。

 

オヤジは最期まで 生きることを諦めませんでした。

鎮静薬で眠ることをしませんでした。

家族、友人、 仲間、 此処での出会いがあり、みんなの応援があったから、最期まで ガンと闘い 走り続け 自分の力で ゴールしました。

見事な、ゴールでした。

子供たちにも、誰にも恥じない、ゴールでした。立派でした。

改めて オヤジの側で 闘い続けれたことを誇りに思いました。一緒に手を繋ぎゴールさせてくれた オヤジに感謝です 。

 

子供たちと一緒に オヤジの体をしっかり拭きました。

最期に着る服はオヤジが自分で決めていました。

ガンを告知された時 娘が5年生、息子が1年生でした。余命は半年〜1年と言われ 諦めてた娘の 卒業、入学。 行けました!

その時に 息子の卒業式 は無理かな…、頑張りたいな〜と 話してました。

正直 年末から ゴールが近づいているのを感じてました。

なので オヤジは 最後は 娘の卒業式に買って来て行った スーツを着せてくれと。娘の中学卒業、 息子の卒業式、 子供たちの節目には必ず

行くからと、。

 

オヤジは家に帰ってきました。 二日間、3年7ヶ月闘い続けた身体を安め 家族の時間を、過ごしました。

オヤジの友人は働き盛りの年代で 仕事をしています。なので 家での二日間、葬儀の二日間の計4日間の何処かで 友人達に 見届けてもらえたらということで少しゆっくりしました。

それなのに、家での二日間、沢山の友人が来てくれました。何度も来てくれた友人もいてました。

葬儀での二日間もほぼみんな同じメンバーでした。仕事を休んで来てくれました。 予定をキャンセルして来てくれた友人もいてました。

葬儀は形式的には家族葬ですが、家族とオヤジの友人葬という感じで 家族のような、温かい、感じの葬儀でした。

本当は「葬儀」という言葉を使いたくないんです。

友人達に 家での二日間は 3年7ヶ月闘い、最期まで生き抜いたオヤジの 休息時間

お通夜は 祝賀会、告別式は表彰式、 火葬は表彰台に天まであげる!

という気持ちでと 話していました。

15日は 家に連れて帰れて嬉しく、 12月25日まで寝ていた リビングのベッドに寝かせ 温かい気持ちになりました。

私と子供たちも 久しぶりにオヤジと川の字になり眠りました。

次の日の16日の朝は いつもオヤジが起きて 私を起こさないように気遣い、歩行器を使い 酸素のホースを手繰りながら トイレに行って いたのに

起きないオヤジに涙が出ましたが、まだ居てくれてる!!って思い。

17日夕方 お迎えが来て 会場への送り出しに友人たちも来てくれ

笑顔ではできませんでしたが、「逝ってらっしゃい!」と送り出しました。

 

たくさんの友人に囲まれ、祭壇は一番安いクラスでしたが、沢山の献花に囲まえ、オヤジの人柄あふれる、優しさ感じれる 式でした。

此処でも たくさんコメントを頂き、励ましてもらい、

 ご存知の通り 財産は遺せなかったオヤジですが(笑)

私と子供たちに これから歩んで行くなかで お金で買えない ステキなオヤジの財産を遺してくれました(*^^*)

あのオヤジの最期まで諦めず闘い続け、生き抜いた姿は

子供たちが 成長し悩み立ち止まったとき、あの姿を思い出すことで何かを感じ 導いてくれると思います。

 

日が立つにつれ、やはり寂しさが増してしまいますが、家族を友人を愛して、大切に守り続けたオヤジの温もりを感じながら 無理せず、少しずつ のんびりと前を向いて歩んで生きます!!

頑張るぞぃ!

負けたわけではない、最期まで諦めず、闘い 生き抜いたオヤジを

伝えたくて長くなりましたが

本当に 本当に応援、励まし、ありがとうございました。

 

P・S  写真は 告知されて直ぐ3年7ヶ月前のものです。

今は身軽になったので この容姿で ややオヤジにはなっていると思いますが(笑)  皆さんにお礼を伝えに回ってると思います(^^)