生き続けてやる肺がんオヤジのつぶやき No2

肺がん脳転移ステージⅣを宣告されたオヤジが綴る日々の呟き!日々迷走中(^ ^)

初めての抗がん剤

ガンマナイフが終わり退院前に 頭の浮腫みがあり、退院が少し伸びましたが、一先ず退院。

この浮腫みが 後に 頭痛となり、これもずっと付きまといました。。

hiroは浮腫みやすく その都度ステロイドや利尿剤で対応してましたが、うまくいかず

闘病3年目くらいなると、身体もですが、頭が一回りくらい大きくなったように思えるくらい、ブヨブヨしていました。。

 

 7月 26日

呼吸器内科より 腫瘍内科に転科

この日より 主治医は腫瘍内科 H先生になりました。

H先生との相性はhiroは普通といった感じでしたが、 私はお会いし、これからの治療の説明等でお話するにあたり、好印象でした。

判断力が優れた先生で、不安な私達をしっかりリードしてくれました。

 

そして、治験治療を受けることになり

治験治療は治験コーディネーターと言って専門職の看護師さんが 担当してくれます。

コーディネーター看護師さんはYさんで

市民病院での治験治療は約2年ほど続きました。Yさんはずっと担当してくれ、hiroにいつも寄り添ってくれ、私達が直接先生に聞けないことも 架け橋になってくれたり、

とても、信頼感のある看護師さんでした😊

 

 

8月5日~9日

ファーストライン

パクリタキセル+カルボプラチン

を4週に1回 投与

それと、 錠剤の治験薬を毎日服用

のコースで始まりました。

治験薬は何かは教えてもらえませんが

癌細胞は血管を通り転移します。

それを 阻害させる、血液阻害剤と聞きました

hiroの場合、市民病院での治験治療は

標準治療とプラスアルファとして治験治療を受けていました。

 

ファーストラインは比較的うまく効果が出てくれ

12月までの4ヶ月間続けれました。

 

 

この時点ではhiroも私も不安とわからないことだらけでした。

hiroの初めの気持ちは 頭の腫瘍ガンマナイフ治療は受けるけど 抗がん剤は受けない。

と言っていました。 

理由は ネット検索をしてるうちに、やはり医療費問題、医療費の負担が大きいことを知りました。正直、年齢的にも3割負担は大きいですよね。。限度額があると言っても、返ってくるのは数ヵ月後。。

hiroの思いは、自分の治らない病気に

お金をかけたくない。少しでも、子ども達に残したい。

そして、仕事に1日でも早く復帰したい。

と思っていたようです。

 

何度も話し合い、抗がん剤を受けてしんどい思いをするのは、hiro。

あまりにしんどかったら、直ぐに止めても良い。 だから、家族の為にワンクールだけでも受けて欲しい。と言いました。

 

 

7月の告知から 私はセカンドオピニオンを探していました。

私の職業柄、交流のあるドクターに事情を説明すると みんな色々調べて教えてくれました。

 

結果的には 主治医のU先生、H先生に信頼を持てたこと、それと、hiroは遠くの病院は嫌がりました。

私や子ども達が直ぐに行けること、自分一人でも、通院できるところ を望みました。

 

近くに 私達の思いが合致する病院があったことが、良かったと思えました。

「金運はないけど、病院運はあるね~」って二人で笑い合っていました😄

 

始めての抗がん剤の副作用は 投与して3日後に 出てきた、しゃっくりでした😄

苦しがるのか?痛がるのか?ムカつきから嘔吐するのか?と二人でドキドキしてたら

しゃっくりで、二人で笑いホッとした瞬間でした😊

 

 

投与して 数日後に時々胸の刺すような痛み、痺れがあり、脱毛も1週間程で現れました。

hiroは脱毛を気にしていましたが、私は

「効いている証拠と思って😊」とか、「しんどくてお風呂入れないとき 拭けからいいやん🎵」と ポジティブに返答していました😊

抜けて来たので 私にバリカンで散髪してと言いましたが、 私は 抗がん剤を続けていくと生えてこない。。これから整えるくらいの散髪は私がするであろうから、もしかしたら

最後の散髪屋さんでの散髪になると思い

「お風呂場が髪の毛だらけになる~😭 皮膚切ったらどうしよ~😭」と言って 散髪屋さんに行くことを促しました😊

 

4週に1回の抗がん剤

投与~1週目 はダルさ等がありました。

 

2週目は一旦良い細胞も弱めてしまうため、白血球が下がるので 身体もしんどくて、 

体力が落ちると気力も落ちますね。。

抵抗力もなくなるので、 生物とかも避けていました。 本人はもちろん、私や子ども達にも手洗いうがいは徹底しました。

 

3週目は  徐々に良い細胞が復活してくるので

体力気力も少しずつ回復してきましたが、

回数を重ねて行くほど、回復に時間がかかりました。

 

4週目は 次の抗がん剤も出来るように体力気力もあり、普通に生活ができました。

一番気を使わない期間でした😊

2週のしんどさを忘れてくれるように、(誰でもしんどさばかりだと、次嫌になりますもんね。。😭)

家族で出かけたり、楽しい時間を過ごしていました😊

 

 

余談ですが、、

こんにちは😃

hiroの闘病を書くにあたり、当時のhiroのブログ、私のノートを読み返しながらブログを書いているのですが、何だかhiroと確認しあい作っている気持ちなります😊

 

先日 肝臓がんの友人のことを書きましたが

hiroが闘病中に、友人が治験治療を受けた

肝臓に直接カテーテル抗がん剤を投与するっていう 治療なんですが、認可されたことを知りました(*^^*)

亡くなったことはもちろん無念で 悲しく思っていましたが、 友人が身体をはって挑んだ治験が 後世に繋げれたこと、ましてや認可されたこと 二人で喜びました😂

 

その事の後押しもあり、hiroも当初抗がん剤はしないって言うていましたが、認可されなくても、誰かがやらないと前に進まない治験治療。

なら!自分が!!と治療に意欲的になりました😊

 

 

これは私の思いなんですが、

hiroの闘病中に困ったこと。。

親しい友人や家族なら、本人に会ったり、連絡したりして様子を伺えますよね。

その時、声のトーンや顔色等で状態を知ることができる。

 

だけど 本人との関係が浅かったり、

間接的関係だと、私や家族に様子を聞きます。

その時、大抵 「旦那さんどう?」と言われます。。

心配してくれてるから、気にかけてくれてるから、様子を聞いてくれます。

全く状態がわからないから 「どう?」

になるのもわかります。

 

闘病中、家族さん 経験ないですか?

 

だけど、「どう?」って聞かれても

通院での抗がん剤治療中や 休薬中、とか副作用できつい状態であっても、家に居てると

何て答えたらいいのか 悩みました。。

家に居てるから元気!というべきか、。

闘病の最大の敵であり、味方はメンタルですよね。

メンタル凹んでいる時「どう?」だけなら取り方によれば 何を知りたいのか?

って思ってしまいます。。

 

「旦那さん 治療頑張ってる?」とかの問いかけなら 応援してくれてるんだなぁ。と受け取れました😊

 

日本語の使い方って難しい‼️

自分も気をつけようと思えます😊

 

すみません😅余談で自分の思い出してしまいました。。

 

また 次から 闘病期に戻りますね😃

 

 

 

 

 

告知からの慌ただしい日々

突然の告知から数日後の

2013 

6月24~26日

病理、頭、骨等の 精密検査の為 入院

この時はまだ、祈る気持ちが強かった

何よりも 子ども達のこと、hiroの仕事のこと。

hiroは丁度転職をして一年足らずでしたが、ようやく自分のやりたい仕事への転職だったんです😊

だから、余計に体調が悪く、息切れ等あっても、仕事に意欲的でした😊

手術をしても、しばらくは抗がん剤等の治療

や定期的な通院があるだろう。

職場は待ってくれるか?! 子ども達にどう説明しようか…と 二人で考えていました。

全てがわかるまで、 癌とは言わず、体調不良の為の検査入院ということにしました。

 

この入院で私は初めて 呼吸器内科の主治医U先生に会いました。

病室で軽く挨拶をした後、病室を出た先生を追いかけ、「私も仕事をしています。毎回の受診に同席出来るかはわかりませんが、今後の治療や説明、大事なことは 必ず私の居てる時にしてください。 」とお願いしました。

二度とhiroに告知のときの思いをさせたくない、全て二人で受け入れていこうと思っていました。

 

 

7月3日

hiroは私の事を考えて、私の姉に同席してくれるよう、頼んでいました。

呼吸器内科に受診 U先生から

原発の右肺に腫瘍、脳の転移も認められました。骨への転移は認められませんでした。肺だけでいうと、ステージ的にはⅡ~Ⅲですが脳への転移があるため、ステージⅣとなります。肺よりも先ずは脳の腫瘍を最優先での処置になります。これから放射線科に行って下さい。」

淡々と説明がありました。

hiroはずっと下を向いていました。。

私は脳の転移と言われたところから

頭が真っ白になり、「なんで?!嘘やろ?!」とそればかり。。

姉に抱き抱えながら診察室を出ました。。

 

放射線科に行き姉に抱き抱えられながら、泣きじゃくる私とずっとうつむいているhiroに看護師さんが 駆け寄ってきてくれ、

「しんどい話聞いたね。辛いよね。だけどこれからの治療は二人で助け合い、お互いを思いやりながら頑張らないと、しんどいよ。」と声をかけて下さりました。

その言葉を聞き私は

「そうだ!これからhiroはもっとしんどい治療をうけないと行けない。辛くしんどいのはhiro。しっかりしよ!!」

と思い 泣くのをやめました。二人のゴングが鳴ったかのような感じでした。

hiroもしっかり顔をあげ 放射線科の先生からガンマナイフの説明を聞きました。

この言葉がなければ、二人とも悲しみから抜け出せず、闘えなかったと思います😊

本当に感謝です

 

放射線科でガンマナイフの為の入院日を決めて 病院を出ました。

 

帰宅後 二人で 子ども達への説明や仕事をどうするか等 話し合いました。

hiroは私に色んな不安があるし、弱音もあるやろうけど、精一杯闘うから。と言いました😊

二人の中で 子ども達には本当のことを話することに 同意でした。

 

 

7月4日

hiroは病状報告に会社に行きました。

会社は退職を促されましたが、今後のこともあり、即答せずに帰ってきました。

 

 

私も職場の院長に話ました。

「院長は今後の生活のこともあるから、先ずは旦那さんの治療、付き添いを優先し、

可能な時に出勤すれば良い。

絶対諦めるな‼️ 沢山の治療方法があるから、

可能性がある治療ならお金、治療費の問題では諦めるな‼️ 協力するから」

と言ってくれ、本当に嬉しく心強く思えました😊

 

 

7月16日~22日

ガンマナイフの為入院

ガンマナイフの影響で頭の浮腫みが出てステロイド。予定より少し伸びましたが、退院。

後に 腫瘍が視野を司るところにあった為、物が二重に見えたり、フラッシュのような光が入るなど 視野の影響がずっと付きまといました。。

 

この入院で私は主治医のU先生に先生と私で話をする時間を作ってもらうようお願いしました。

私は hiroと結婚し、上の娘が出来るまでの3年間 病院の口腔外科に勤務していました。

病院の口腔外科は口腔癌の治療が多く

分野はちがいますが、全く癌を知らないってことはなかったこと、

それと、hiroの癌がわかる三年前に

友人が肝臓がんで35歳で亡くなりました。

友人の余命は3ヶ月。どこの病院も治療困難と言われた友人ですが、近大病院が治験治療を提案。 その治療がピタリと合い 1年半

頑張れました。

 

U先生に再度現状の説明と今後の治療方針を確認しました。

hiroの肺癌の種類、型が抗がん剤が効きにくいこと。

ガンマナイフの後 肺の抗がん剤治療をするということ。

肺が抗がん剤で小さくなれば 手術は頭があるから不可能でも、放射線治療は出来ないか?と言うことを確認しました。

そして、 私の最大の目的である

治験の話を切り出しました。

治験は色々な思いや 意見がある、賛否両論なので、あくまでも、私の思いです。

癌と闘うには 体力、気力が一番の治療薬だと思っています。

一番体力がある、ファーストラインで

どれだけ 癌を散らせ小さくするかが勝負だと思っていました。

私の職業柄、日本の認可の薬剤が安全だけど、かなり少ないこと、治験も 段階があり、

最終段階くらいの物しか日本は治験にならないことの認識がありました。

それと、治験でも大学病院と市民病院では市民病院が遅れてると言うか 安全に近いこと。

そのことも踏まえて

抗がん剤は標準治療から選ぶのではなく、

治験対象薬も視野に入れて考えて欲しいことを伝えました。

先生はびっくりされてましたが、

治験も考えるなら、呼吸器より 腫瘍内科の方が良い。

腫瘍内科の先生に相談すると言ってくれまた。

 

そして、

hiroの残された時間、余命。

抗がん剤が適合するかしないかで大きく変わるが、半年から一年。

今のhiroにはそのままを伝えないで欲しい。

その言葉のままなら、もう少し時間が必要。

本人は一番気になっていることなので、必ず先生に聞いてくると思う。だから嘘やごまかしではなく、 違う伝え方はないか?を

相談しました。

そしてたら先生は「治療せずに無治療なら半年、治療し抗がん剤が合えば 年単位」と説明します。と言ってくれました。

 

 

私は正直、初めの印象からU先生に対し少し不信感がありました。

ですが、この説明と話をしてからは

先生を信用してみようと思えました。